ジャン=リュック・ゴダール監督死去 91歳 「勝手にしやがれ」「中国女」など ヌーヴェルヴァーグの旗手

(2022年9月14日10:30)

ジャン=リュック・ゴダール監督死去 91歳 「勝手にしやがれ」「中国女」など ヌーヴェルヴァーグの旗手
ジャン=リュック・ゴダール監督(インスタグラムから)

「勝手にしやがれ」などの作品でヌーヴェルヴァーグの旗手といわれたフランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールさんが13日(現地時間)、スイスの自宅で死去した。91歳だった。

米紙ニューヨーク・ポスト(電子版)によると、スイスの通信社ATSは、ゴダール監督のパートナーで映画監督のアンヌ=マリー・ミエヴィルとプロデューサーたちの話として、ゴダール監督は13日(現地時間)、レマン湖に面したスイスのロールにある自宅で愛する人々に囲まれ、安らかに息を引き取ったと報じた。仏紙ル・モンド(電子版)によると、ゴダール監督はスイスで認められている医師が処方する薬物を使った「自殺ほう助」で亡くなったという。監督は2014年5月にスイスのラジオテレビ(RTS)で受けたインタビューで、自殺ほう助に頼る可能性があることについて語っていたという。家族のアドバイザーは「ゴダール氏は、医療報告書の条件に従って、複数の病状の後、スイスの法的支援に頼り、自殺ほう助で人生を終えることにしたのです」と語ったという。


フランスのマクロン大統領は、ゴダール監督を「ヌーヴェルヴァーグの最も象徴的な監督」として、「断固としてモダンで強烈に自由な芸術を発明した」と賛辞を贈り「我々は国宝、天才の眼を失った」と述べた。

ゴダール監督は、1930年12月3日、フランスのパリの裕福なフランス系スイス人の家庭に生まれ、スイスのニヨンで育ち、1949年パリに戻り、エリック・ロメールが主催する「シネクラブ・カルティエ・ラタン」に参加。後に大監督となるフランソワ・トリュフォー、ジャック・リヴェット、エリック・ロメールと友人となり、1950年に「ガゼット・デュ・シネマ」を創刊。1952年には、権威ある映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に寄稿するようになる。

ジャン=リュック・ゴダール監督死去 91歳 「勝手にしやがれ」「中国女」など ヌーヴェルヴァーグの旗手
「勝手にしやがれ」のベルモンド㊧とジーン・セバーグ(インスタグラムから)

1960年、初の長編映画「勝手にしやがれ」が、ベルリン国際映画祭の銀熊賞(監督賞)を受賞。ベルモンド演じるミシェルはマルセイユで自動車を盗み追って来た警察官を射殺する。パリに着くが文無しで警官に追われ、ジーン・ゼーバーグ演じるアメリカ人のガールフレンドのパトリシアと行動を共にしイタリアに逃亡しようとするが、パトリシアは警察に通報してしまうという内容で、画期的なカメラワークなどで反響を呼び成功を収め、ベルモンドはこの映画で一躍スターになった。

1959年に公開されたトリュフォーの「大人は判ってくれない」と同様に、ゴダールの映画はフランス映画の美学に新しい流れをもたらし、映画革新運動の「ヌーヴェルヴァーグの旗手」と言われた。従来の物語スタイルを否定し、哲学的な議論とアクションシーンを織り交ぜたジャンプカットを多用しそれまでの映画の常識を覆した。
1967年、アメリカ映画が世界を席巻することを批判し、商業映画との決別を宣言して品はより政治的なものになった。「中国女」(1967年)はパリの5月革命を先取りしたといわれる。1968年には、フランスで起きていた学生と労働者のストライキ運動「5月革命」に連帯し、警察や政府映画業界に抗議してトリフォー監督と共に第21回カンヌ国際映画祭に乗り込んで「カンヌ国際映画祭粉砕事件」を起こし、ロマン・ポランスキー監督ら審査員らも支持して審査や出品を取りやめるなどしてこの年のカンヌ映画祭は中止にな追い込まれた。

ジャン=リュック・ゴダール監督死去 91歳 「勝手にしやがれ」「中国女」など ヌーヴェルヴァーグの旗手
ゴダール監督死去を報じる仏紙ル・モンド(電子版)

1979 年、「勝手に逃げろ/人生」で商業映画に復帰し、1980年代には「パッション」「ゴダールのマリア」「カルメンという名の女」などの話題作を次々に発表。
1990年には19世紀末からの世界の映画全体を振り返る構想の「映画史」の製作に没頭。ビデオ作品として制作された。2014年には初めて3Dで撮影した「さらば、愛の言葉よ」が第76回カンヌ国際映画祭審査委員賞を受賞。ヘアを見せた女優の3D全裸シーンなどが強烈な印象を残した。2018年公開の「イメージの本」が最後の作品になった

2007年12月、ヨーロッパ映画アカデミーから生涯功労賞を授与された。2010年11月、映画史家で映画保存家のケビン・ブラウンロー、監督・プロデューサーのフランシス・フォード・コッポラ、俳優のイーライ・ウォラックとともにアカデミー賞名誉賞を受賞したが授賞式には出席しなかった。

私生活では1961年、デンマーク出身のフランスの女優アンナ・カリーナと結婚。カリーナは「女と男のいる歩道」(1962年)、「気狂いピエロ」(1965年)などゴダールの映画に次々と出演し、そのすべてがヌーヴェルヴァーグの代表作とされる。1965年に離婚。1967年、フランスの女優アンヌ・ヴィアゼムスキーと再婚。その後、スイスの映画監督アンヌ=マリー・ミエヴィルと交際を始める。1979年、ミエヴィルとスイスのロールに引っ越した後、ヴィアゼムスキーと離婚し、ミエヴィルとスイスで生涯を共にした。